左ききのエレンの出版について思うこと。

綺麗にパッケージングしなければいけないという常識が優ったのか、出版社の意向であったのかはわからない。
出版に際して、『左ききのエレン』の絵は、作者のかっぴーさんではなかった。

エレンのこの絵を最初に見た戸惑いも、知らない間に引き込まれていた感情も、全て綺麗にパッケージングされてしまった。

左ききのエレン

左ききのエレン:叩きつけるような情念を感じさせるかっぴーさんの絵

僕自身、かっぴーさんの絵を絵コンテのような絵と、表現したことがある。
まさに彼の絵は、絵コンテのように想像を掻き立てる絵だ。

クリエイターが、その絵を見て、感じて、自分の脳内で昇華させるための絵だった。

その絵が、nifuniさんの綺麗な繊細な絵に変わってしまった。
彼女の絵も素敵な絵であることは間違いない。

気だるげな、退廃的なイメージを醸し出す筆致はとても美しい。
ただ、その雰囲気に絵が勝るのかストーリーが勝るのか、ぶつかり合った時に、実はそれぞれが、強いストーリーに負けてしまう…。

それまで、絵の中にあった読者へ叩きつけるような怨念さえ感じさせるメッセージ性がかき消えてしまうのだ。
かっぴーさんが描くコンテのような絵は、クリエイティブを刺激する情念を内包して突き進む。
ぐいぐいと我々を引き込んでいく。こんな荒い絵を…と思いつつも、その絵で涙して、その絵で次の仕事への活力を見出し、その絵に自分の可能性と、過去の自分に対しての癒しをもらった。

かっぴーさんが描くこの作品は全てのデザイナーに対する、全ての生き抜くために仕事をしていた人たちに対する鎮魂歌だったのだと勝手に思っている。

かたや、nifuniさんの優美さを持つその絵が、完璧であろうとすればするほど、人の好みを分断していく…。

左ききのエレン:エレン

左ききのエレン:エレンスタートの1ページ目 何かが始まる雰囲気にnifuniさんの絵柄はぞくりとするほど適していた…。

退廃的美しさと、熱量。
相反するこの図柄が、どうにも私に馴染まないのだ。

今柳の回の絵を見て思う…。

エレンは、やはり、かっぴーさんに描いて欲しかった。
綺麗な絵ではなく、崩れていても、デッサンが崩壊していても、想像力を喚起する感情が先行する、情念や、怨念を感じさせる絵で。

nifuniさんの絵がダメだと言ってるわけではない…。
素敵なのだ、素敵すぎるんだ。
スタイリッシュで、綺麗で退廃的で。
しかし、退廃的という表現は、もう、その情念が達することができない世界で、崩壊を待ちわびている姿に似ている。
スタート時のエレンの表情には、ゾクリとした。
それは、絵を諦めた彼女の姿にnifuniさんの絵がシンクロした姿だったからだと思っている。

パッケージになった瞬間に、情念が抜け落ちた…。
まるで、亡骸のようになったその本を、まだ活きているストーリをもう一度活かすために我々は、更に応援する。

なぜなら、エレンは、かっぴーさんの熱量を受けて、我々が育てた、我々が共感してここまで成長したストーリーだからだ。もう一度、その熱量を取り戻すために。

願わくば、nifuniさん。

今度は、あなたが、我々を裏切って欲しい。
叩きつけるような情念の絵を。
崩れたデッサンでもいいから、整ってなくてもいいから、あなたの怒りや、どうにもならない、切実な想いを見せて欲しい…。
綺麗にまとまらない、クソみたいな感情で限界を超えて欲しいと願いつづけている。

左ききのエレン:柳

左ききのエレン:ぼくらは生きているだけで不謹慎と豪語する柳